胎児の進化について、長崎大名誉教授で医師の増﨑英明先生の講演動画を見ていたら、「超音波」の話になった。
お腹の中の赤ちゃんの様子や、肝臓や心臓などを検査をしたりするエコーのこと。

この超音波、なんとはじまりはあのタイタニック号だという。1912年に出航5日目で氷山にぶつかり、2時間40分で沈没してしまった豪華客船。1500名ほどの方が亡くなった大惨事だ。

建造国のイギリスは、この船を「不沈船」と世間に広め、絶対に沈まない船だと自信をもっていた(そして実際に高度な安全対策がされていた)ので、非常に大きな衝撃を受けた。この、当時世界最大の事故をきっかけに、海に潜む氷山や障害物を見るけるための超音波研究が始まる。

余談だけれど、日本人で唯一のタイタニック号乗客で、事故から生還した細野正文さんは、あのY.M.Oの細野晴臣さんの父方祖父だ。

その後、超音波は第一次世界対戦(1914~)で潜水艦探知機として軍事利用が広まり、さらに研究開発されて第二次世界大戦にも実戦投入された。

日本の話はいよいよここから。

終戦後、長崎で漁船の電気工事を請け負っていた若い兄弟(兄:古野清孝さん、弟:古野清賢さん)がいた。2人は何か使えるものはないかと闇市に出向き、そこで海軍の放出品の「音響測探機」を見つける。海中の地形や、敵の潜水艦を探し出すための機械だった。


(フルノ企業HPより:古野清孝さん、古野清賢さん)

兄の清孝さんは、「潜水艦を見つけられるなら、魚の群れだって見つかるんじゃないか」と、手探りで魚群探知機の開発を始め、1年後に試作品が完成。しかし失敗続きで、だんだんと協力してくれる漁師たちもいなくなってしまった。それでも改良を続け、最後に引き受けてくれた「桝富丸」での漁で挑戦を重ね、ついに大量の魚を見つけて引き上げることに成功。大漁旗を掲げて戻ってきた「桝富丸」に、港は歓喜に沸いたという。以降、桝富丸は漁に出るたびに大漁を記録し、漁獲高トップの座についた。


(フルノ企業HPより:初期の魚群探知機)

古野兄弟と、二人を応援していた人たちの喜びはどんなだっただろう。

そして古野電気は「世界のフルノ」となっていく。

まるで「プロフェショナル」に出てきそうな二人のストーリーは、
こちらの詳細記事でどうぞ↓

●東洋経済オンライン 2015年3月27日
「世界の食卓を大きく変えた日本発の技術」

古野兄弟の世界で初となる「魚群探知機」実用化のおかげで、戦後の食糧難の時代の人々の栄養が支えられた。

そして今でも、毎日当たり前のようにお魚が食べられることは、こんな歴史の積み重ねの上にあるのだと思うと、なんだかお魚売り場に行くのが楽しくなってくる。

 

●参考記事

フルノ企業情報サイト「フルノの歩み」

戦後復興のイノベーション100選「魚群探知機」